2002.1.25 卒業論文より掲載 無断転載禁ず
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2章 ルポルタージュ
ここでは平成13年9月21日〜26日までの下北半島一周旅行における視察内容をありのまま書きとどめることにする。この経験無くして今回の論文はありえない。こう断言できる体験をした期間であり、このとき私はどうしようもない憤りと失望を感じ、そして何か出来ないものかと切実に悩んだのだった。この旅行で、私はガイガーミュラーカウンタ(放射線量測定装置)を持参したのだが、これからも面白い結果を得ることができた。この章では見聞したこと、経験したことを出来る限り新鮮な形で伝えることを目標とする。
1.六ヶ所村へ
2001年9月21日、午後3時、私を乗せた飛行機は青森県三沢空港へと着陸した。米国で同時多発テロが起きたのが今月11日のこと。嘉手納に次ぐ規模の米軍基地がある三沢でもテロの可能性が騒がれ、ちょうど空港では厳戒態勢が敷かれていた頃だった。羽田を出た時はぽつぽつと雨が降っていたが、三沢では快晴とまではいかないまでも日が差しており、そこにはのどかな地方都市の風景が広がった。空港を出たとたん一足先に冬を迎えようとしている青森の冷たい風が、残暑の東京を半袖で飛び出した私を刺激した。
空港でレンタカーを借り、本屋で地図を購入した私はすぐに国道338号線を北上する。途中、淋代海岸で太平洋無着陸横断に成功したビートル号の復元模型をバックに一服。その時であった。バリバリという轟音とともに3機のF-16戦闘機が上空を横切った。訓練を終えて三沢基地に着陸するのであろう。その目的は他でもない殺人にもかかわらず、最先端技術をふんだんに纏った戦闘機の機体は洗練されていて美しく、科学技術への畏敬の念すら我々に与えてしまう。なんと皮肉なことだろうか。米国同時多発テロの報復攻撃が秒読み状態になっている今、彼らパイロットはどのような心境で出撃命令を待っているのだろう。まさか、搭載した最先端技術を存分に発揮してみたいという衝動に駆られていやしないだろうか。
辺りが夕日の赤に染まり始めた頃、六ヶ所村に入った。村内に入っても住宅はほとんど見られない。村を南北へ貫く国道の両側には原生林が続いており、時折、原生林が途切れるとそこには荒野が開けた。ここはかつて開拓団として入植した人々が極寒や貧困と闘いながら切り開いた土地であり、まぎれもなく彼らの暮らしがあった場所である。むつ小川原開発が入って来た時、ここに百万人都市ができるという開発側の主張を信じて、彼らはひと時の金と引き換えに土地を手放していった。当時、住民たちを包んだ石油化学コンビナートによる華やかな工業都市の幻想はどこへ行ったのだろう。ここには、何もないただ荒れた土地と廃屋だけが残されている。今や着々と核廃棄物の終末処理場へと化していくこのような土地を見て、土地を手放していった人々はどういう思いを抱くだろうか。
村内をしばらく車で走るとようやく商店街や民家が道に沿って現れた。
ここが尾駮である。尾駮に入る手前の鷹架沼から核燃サイクル施設への道路が続く。鷹架沼から太平洋につながる岸にはむつ小川原港という人工の港がある。全国の原子力発電所で出された核廃棄物や、フランスやイギリスで再処理され送り返された核廃棄物がここで積み下ろされ、内陸の処理場へと運び込まれる。また、核燃サイクル施設でウラン濃縮、あるいは後に再処理された核燃料がここから出て行くという。このように、むつ小川原港は核の玄関となっている。日が暮れたので、私は宿を探したが、尾駮の民宿はどこも満室で断られ、結局そこからさらに20分ほど国道を北上した泊に宿を見つけた。後で知ったが、ちょうどこの日から、村内の核燃サイクル施設は定期検査の時期に入ったため、全国から原発労働者たちがいっせいに集まっていたのである。
2.泊の民宿にて
9月22日、六ヶ所村へきて二日目の晩のことである。泊の民宿にて夕飯を終えた私は、二人の原発労働者に一杯やらないかと誘われた。観光客など珍しい六ヶ所村という僻地の民宿で、私のような学生が一人で泊まっていたことに軽く興味を持ったのだろう。それからおよそ二時間にわたる飲みの間に私は、信じられないような原発末端労働の実態を生の声で聞かせてもらうことになる。彼らはともに神奈川県のとある零細企業に勤める溶接工で、原発関係の工事や定期検診の度に全国の施設を渡り歩き、放射線管理区域内の清掃や配管の点検・修理を行う、いわゆる原発ジプシーの人たちだった。ちょうどその頃、六ヶ所村の核サイクル施設と東通村の原発が定期検査の時期を迎えており、その日も仕事帰りだという。二人とも50代前後であり、かれこれ15,16年この仕事を続けている。ともに顔色が悪く、お世辞にも健康的とは言えない外見であった。吉田氏(仮名)はこの仕事を始めた途端に禿げたらしく、一方、鶴見氏(仮名)はこの日、風邪をひいていた。二人は、ちょっとしたことですぐに風邪をひくと言っていたが、これはおそらく放射線による免疫の低下であろうことは私にも予想できた。
あらかじめ原発企業社会構造を説明しておく。頂点には原子力エネルギーを推進する国や電力会社、推進窓口として半官半民の原燃が君臨し、その下に日立、東芝、三菱など大手企業が位置する。その下に大手企業直属の子会社が並び、さらに中小企業が層を重ね、下に行くほど零細な企業という構造が出来上がっている。彼らの会社はその最下位層の零細企業で、そこに勤める二人は、自身も自覚する末端労働者である。例えばあるとき、頂点に立つ電力会社が原発内の修理・清掃のために10000円の仕事を出すとする。これを受けた大手企業は自社内で可能な作業だけをして、中間マージンをとった後、5000円で下請けに出す。そしてこれを子会社、次に孫会社というように同様に繰り返していくうち、ごく僅かな仕事代と誰もが避けてきた汚い仕事だけが残される。これを押し付けられるのが、底辺の零細企業というわけである。原発労働の場合、非常に人体に危険な放射線を伴うため、管理区域内の作業員には放射線被爆は年間50ミリシーベルト[1]という法定限度が定められており、日々の被爆量を書き記した放射線手帳の提出を義務付けられているため、電力会社もこの基準だけは厳守している。しかし、本来は100人ですべき仕事も、下りてくる予算が元の10分の1を下回ってしまえば、10人以下の人手でこなさなければならなくなる。従って、零細企業で働く末端労働者に与えられた、最も放射能汚染の甚だしい作業場での仕事を、彼らが本来の10分の1以下の労働力で、法定限度を遵守し、かつ決められた期限内に終わらせようとするのは現実的にまず不可能なのだ。さらに、末端労働者である彼らの賃金体系は、親会社から受注した仕事を成し遂げて初めて支払われるという出来高・歩合制で、仕事が遅れれば収入は当然お預け、完成しなければ無給ということになる。それに、仕事が完成しないと個人の賃金どころか、次からその会社への仕事の発注が途絶えるため、会社は倒産の危機にさらされてしまう。
では、末端労働者である彼らはどうするか? 胸ポケットに入れたサーベイメータを作業場の入り口の横に隠し置き、少しでも放射線をさえぎるためヘルメットで隠すのである。これは日常茶飯事に行われていることらしい。吉田氏はサーベイを外したまま、炉心[2]に飛び込んで作業したという経験までも語ってくれた。プルサーマル計画が滞っていることにも愚痴をこぼしていた。プルサーマル計画が実行に移されれば、単に仕事が増えるからである。そこには危険という文字はない。
私があまりにものショックで唖然としていると、鶴見氏が放射線の危険性を教えてくれないかと尋ねてきた。私が説明しようと口を開いた途端だった。吉田氏がすかさず私の話を遮る。
「みんな同じ。誰だって自然放射線を浴びている。もちろん量に差はあろうが、俺もこうやって生きているじゃないか。それに人は誰だって、いずれ死ぬ。だから同じなんだ。」
この言葉は、自分自身に言い聞かせているように感じてならなかった。そう、彼らは不安なのだ。しかし同時に、知らないからこそ作業ができるのだ。彼らは「臨界」の意味すら知らなかった。JCO事故にしても、彼らがもし当事者であったなら、同じ結果を招いただろうと認めた。なぜなら、彼らにとって、この作業はバケツで水を注ぐごとく一日に何度か溶液をプールに流し込むだけの感覚なのだから。知らないというこの弱みに付け込んで、危険性を知る上位の人々は、彼らに作業を押し付けるのである。放射線はそもそも目に見えるものではなく、肌で感じ取ることのできるものでもない。従って、教育がいい加減であればあるほど、彼らは危険性を知る術はなくなる。さすがに、同僚が体調を崩し職場を去っていくのを目の当たりにしていると、なんとなく放射線の危険がわかってくるらしいが、これが彼らの学ぶ精一杯の知識なのである。
二人はその日その日を生きるためだけに働いていた。彼らには養わなければならない家族がいる。二人は私に、私が原発反対派の一員ではないか何度も念を押した。原発末端労働の実態を社会の明るみに引き出して原発反対運動を起こされては、自分たちが働きにくくなり、自ら首を絞めることにつながるからであった。にもかかわらず、酒の勢いで私にこの実情を打ち明けたのは、私が学生だからかもしれないが、それ以上に、自分たちを守ってくれるものは何もないという孤独の苦しみがあったからであろう。いわばどうしようもない現状に対する悲鳴なのであった。仮に彼らが倒れたところで、サーベイの値だけを正確に刻んだ放射線手帳は作業が合法に行われていることのみを証明し、労災認定を手助けするはずがない。生命保険も原発労働者となれば審査が厳しくなるうえ、加入は彼らの不安定で低い賃金上、大きな負担になる。仕事を変わろうにも、今さら学歴ノンエリートで、資格すら何も持たない彼らに残される仕事はない。だからといって惨めな現状を公に訴えると、即座に首を切られてしまう。これこそまさに極貧状態であり、改善の余地すらない。吉田氏は自分の立場をこう言い切った。
「かつての炭鉱労働者が、年月と科学技術の進歩を経て原発労働へと形を変えただけなんだ。結局、本質は何も変わっていない。」
このどうしようもなさを理解しながらも感情の高まりから、私はつい質問を重ねてせざるを得ない。
「では、どうすれば救われるのでしょうか?」
「理想は100人ですべきことは100人でやらなければならない。そのためには、この労働社会構造が根底から変わらなければならない。けど、結局のところそれは無理なんだ。では、放射線漏れ事故[3]の時、真っ先に汚染区域に飛び込んでバルブを閉めに行かされるのは我ら末端労働者であるが、元々はその設計に関わった研究者や設計者の責任なんだから、せめて彼らが飛び込んでいくべきだろう。途中で彼らが倒れようが、その態度だけでも見せてほしい。それができない人間は本当に情けない。いや、でも、我が身がかわいいのは誰も同じで、もし自分がその立場であれば下の者にやらせるだろう。これじゃあ、どうしようもないな。だから、もう諦めるしかない。悲観的になったところで何も変わらない。それよりも目の前のことを考えよう。」
この後、吉田氏は暗い話ばかりをしてしまったことを私に丁寧に詫び、そして最後に、レンタカーで旅行中の私にこう言い残した。
「くれぐれも交通事故だけは気をつけてくれ。」
・・・言葉に詰まって、返す言葉がなかった。
3.日本原燃PRセンターと核燃料サイクル施設
翌9月23日、予てから見学の申し込みをしてあった日本原燃PRセンターへと足を運ぶ。今日はここでPRセンターの展示を見せてもらった後、ここから車で5分ほど離れた核燃料サイクル施設内を見学させてもらう。休日だったせいもあり、PRセンターは思っていたよりも見学客が多かった。受付で名前と要件を告げると、所長が出てきて、私を客間へと案内した。そこで核燃サイクルについてありきたりな説明を受けた後、早速コンパニオンの女性が付き添いでPRセンター内を案内してくれた。時間が限られているせいもあって、急ぎ足な説明だったが、他の見学客に比べ随分と丁重な扱いである。一通りセンターを巡って再び入り口の受付へ戻ると、そこには先ほどの所長とセンター内のコンパニオンの女性10名ほどがずらりと一列に並んで私の帰りを待っていた。さすがに私もこれには驚いた。所長は改めて丁寧に私に挨拶をした後、今度は核燃サイクル施設内へ私を案内するよう、並んだ中から二人のコンパニオンを指名した。その瞬間に思ったが、指名されたコンパニオン二人はどう見てもこの中で最も美しい女性二人だった。施設内の見学の予約客は他にも何名もいて、その人たちはまとまってバスで施設へと案内されるのに、私だけは私の車にコンパニオン二人を乗せて、私の運転で施設へ入る。どうみてもこの待遇の差はおかしい。その疑問は、施設に入るときに渡された入域許可証のバッジを見てなんとなく納得した。そこには名前とともに同じ大きさで、「一橋大学社会学部」と書かれている。私は個人的に見学をしたかっただけなので、申し込みで「所属」という欄に学生と書いた。すると確認の電話がかかってきて、「どちらの大学ですか?」と聞かれるので口頭でそう答えただけだった。しかし、こうあからさまに扱いが変わると改めて学校歴社会を痛感してしまう。昨日の末端労働者の話を聞いていただけに、このように特別な待遇を素直に喜べなかった。
核燃サイクル施設は尾駮沼を囲む大石平と弥栄平を切り開いて建てられた。大石平にはウラン濃縮工場と低レベル放射性廃棄物貯蔵センターが、弥栄平には高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センターがつくられ既に稼動しており、これに加え、弥栄平には再処理工場が建設中である。これまでに7割近くが完成しており、このまま順調に行けば、平成17年に完成するという。敷地内の小高い丘からは、眼下に低レベル放射性廃棄物のドラム缶を詰め込んだ真っ白なコンクリートの塊を望むことができる。まだ土の被せられていないコンクリート塊は、まるで巨大な豆腐であった。コンクリートは水に弱いという弱点が指摘されておきながら、いつまであのまま放って置くのだろう。
高レベル放射性廃棄物貯蔵センターの見学通路から見える放射線管理区域は、鉛を入れて黄色がかった分厚いガラスで隔たれていて、放射線も外部に漏れる心配はないとコンパニオンの南さん(仮名)は説明してくれた。実際、ガイガーカウンタをリュックに隠し、貴重品だからどうしても身につけておきたいと頼んで持ち込んだが、そのカウンタも放射線をほとんど感知していない。中には、高レベル放射性廃棄物を詰めこんだキャスクが整然と並べられているのが見える。高レベル放射性廃棄物は未だ崩壊熱を放っているので、それを詰め込んだキャニスターの表面温度は400度前後である。キャスクを空けて中のキャニスターを取り出す時、放射線が漏れるだろう。私にはこの分厚い防護ガラスが、核燃サイクルにおける階層の壁に思えてならなかった。いくら目の前に、高レベル放射性廃棄物や再処理されたTRU核種[4]が見えるとはいえ、私にはその距離は非常に遠いものに感じられた。昨日の末端労働者たちは、目前の現場で被爆労働をしているのである。
私に主に説明してくれたのが南さんで、語尾の「〜ます」を強調する色白で背の高い綺麗な人だった。もう一人のコンパニオン、水野さん(仮名)も綺麗な人で南さんの先輩らしく、南さんの説明にいくつか補足をしてくれた。私としては、核燃サイクル構想のことは、文献で何度も調べてあったので、施設それぞれの説明は聞かなくても大体知っていた。それよりもコンパニオン二人の核サイクルに対するホンネの方が知りたかった。二人とも出身は青森県で、南さんは六ヶ所村出身だそうだ。南さんに色々と質問をしようとしたが、決められた案内手順を外れた途端、水野さんがうまく話を戻すので、細かいことは何も聞けなかった。核燃サイクル構想については、その危険性について知るところの質問をいくつかしたが、常に、最先端技術の説明と共に「大丈夫ですよ」という答えしか返ってこない。二人に、にっこり微笑みながら「大丈夫ですよ」を繰り返されると、「なるほど、本当に大丈夫なんだ」という気持ちに包まれそうである。まるで放射線の恐ろしさをコンパニオンの女性の綺麗さが中和しているようだった。いくら最先端技術を駆使しても、低レベル放射性廃棄物に関しては少なくとも300年、高レベル放射性廃棄物は2万年以上の管理を要するうえ、その隔離・管理技術は未だ世界中でも確立されていない。まして、高レベルに関しては最終処分地すら決まっておらず、大丈夫ということは決してありえないのに・・・。
核燃料サイクル施設見学を終え、二人と施設の正面ゲートで別れた後、陸奥湾に沿って北上。23日の晩はむつ市、24日の晩は本州最北端の大間岬に泊まり、下北半島観光を楽しんだ。25日は下北半島北西に位置する大間岬から東の尻屋崎を回り、今度は太平洋岸を南下して再び六ヶ所へ戻る。その日は尾駮の民宿に泊まって、翌9月26日、下北旅行の最終日の午前中、私は再び原燃PRセンターを訪れる。23日に来たときは、コンパニオンの案内があったのと時間の都合で、ゆっくりとセンター内を見学できなかったので、もっと色々と知りたいと思ったからである。この日は朝早かったのと平日であったため、館内に客はほとんどいなかった。ハイテク技術を盛り込んだ核燃料サイクルPR用のコンピュータやシミュレーション機器が並べられ、老若男女を問わず楽しめるように工夫された施設は、住民から核燃サイクル構想の安全性に対する信頼をいかに勝ち取るかが目的の娯楽施設である。そのため、当然、放射線の危険性に触れた説明はほとんどなく、あったとしても楽観的な基準のもと、大丈夫を強調するものばかり。また、配られる色彩鮮やかな数多くのパンフレットには、核燃サイクル構想内部の労働者に対する細かな説明もない。「こんなPRセンターやパンフレットに大金をつぎ込むなら、現場で直接被害を受けている労働者の負担を少しでも軽減する資金に回せばよいのに。」そんなことを考えながら、センターの階段を降りたとき、偶然にも案内所に南さんが立っていた。
他に社員や客はおらず、これはチャンスだと思い、前回聞けなかったことをいくつか質問した。南さんは私より4歳若く、物心ついたときには既に日本原燃は村に入っていた[5]。そのため、核燃料サイクル構想に対する不安はほとんどなく、逆に、村内の道路がアスファルトに舗装されたり、ショッピングモールができたりと街の発展の方が嬉しかったと言う。
「街はこれからも発展していくことでしょう。村内の人にとっても就職先が増え、出稼ぎに行かなくてもよくなりました。また、会社は村内に郷土資料館や案内板を建てるなど、観光設備を充実してくれることで観光客の姿も見られるようになりました。これって素晴らしいことだと思いません? 私はこの村が好きです。だからこそ、こうやって村が発展していくのが嬉しくて。」
「低レベル放射性廃棄物の最終処理場に決まっていますし、高レベル放射性廃棄物も中間貯蔵と言われつつ、他に持って行き場のない現状から、いつまでここに置かれるかわからない。そのような中で住民として暮らすのは怖くないのですか?」
「怖くないですよ。だから、今では村では反対運動があまり起こらなくなったのです。これまで、事故は何も起きていないですし、これからも科学技術がきっと安全を保障してくれるでしょう。」
再処理工場といえば、既にフランスのラ・アーグで労働者の被爆、イギリスのセラフィールドでは放射能汚染が問題となっている。六ヶ所でも同じような事例は起きないとは言えない。どうしてここまで、科学技術を信頼できるのだろう。最後にもう一つ質問を加えた。
「六ヶ所村ではITER計画という核融合実験炉誘致の運動がありますが、これについてはどう思いますか?」
「核融合がどういうものかは詳しく知らないけど、誘致することが発展につながるなら、それも素晴らしいことだと思います。そうやって、色々と選択肢が増えてくるのは、今の構想があるからです。エネルギーも確保され、CO2も出さない。誰もが喜ぶことでしょう?」
このように南さんは、核燃サイクルのもたらす理想郷のような村の未来を語ってくれたのだった。
4.街の様子
鎌田慧氏の『六ヶ所村の記録』において描かれた六ヶ所村内では、核燃サイクル構想に対する住民たちの反対の様子が窺える。しかし、どうしたことだろう。私が訪れたとき、ちょうどむつ小川原港では接岸した青栄丸から放射性廃棄物の積み下ろしがなされていた。近くまで行ってみたが、何人ものガードマンが見張っているのを除いて、住民らしき人物は誰も見当たらなかった。それどころか、村内には核燃サイクル反対を訴える立て看板すら見られない。『六ヶ所村の記録』の中の反対運動はどこに行ったのだろうか。
国道338号から核燃サイクル施設へと入る道の途中に「REEV」という大きなショッピングモールが村の風景に似合わぬ姿で建っている。果たしてこの人口で採算は取れるのか。他にも、文化交流プラザである「スワニー」や、六ヶ所村郷土資料館があり、どちらも立派な建物であるが、中はがらがらであった。これらはどれも原燃が入ってきた後に立てられており、出資者も主に原燃である。このような施設に巨額の投資をするのは、住民 たちの核燃料サイクル構想に対する不安をそらすのが目的の、いわゆるごまかしである。これらの施設にしろ、原燃PR センターにしろ、もっと他に金を回さなければならないところがあるのではないか? 村の外見だけが華やかになっていく一方で、村内の核燃サイクル施設の管理区域内では、末端労働者たちが徐々に放射線に身体を侵され、また、地中において核廃棄物は人工バリアを刻々と蝕んでいるのである。泊の民宿にて会った二人の労働者が口を揃えて、核燃サイクルにはホンネとタテマエがあることを指摘していたが、まさにこのことであろう。
私が六ヶ所村内へ初めて入った日、泊の民宿にて、民宿の女将さんに核燃サイクル構想に対する率直な意見を聞いてみた。
「そりゃ、今でも不安だべ。10年ほど前は、この辺、皆、反対でワァーと盛り上がったの。けど、無駄、無駄。結局、(原燃は)入って来たし、やること何でもするべ。だから、皆、諦めて・・・。」
訛りの強い口調でここまで言った後、私の方を振り返って、
「お兄さん、核燃はどうな? 大丈夫なんかね?」
「今は、汚染は確認されてないでしょうけど、これから先のことは何も言えません。危ないことは確かでしょう。放射能の被害は突然現れるわけではなく、徐々に環境を侵しますから。」
私が答えると、
「けど、我々はどうすることもできんだべさ。よそへも行けんべ?」
と言って、俯いてしまった。
泊は六ヶ所村の北端に位置し、昔から漁業で栄えた集落だった。六ヶ所村内で最も多い人口を抱える泊は、むつ小川原開発が入ってきたとき、開発に伴う公害を危惧して、漁協を中心に激しく反対運動が起こった地域である。今でも、反対意見を持つ住民は多くいるそうだが、以前ほど運動が高まることは無くなったと聞く。宿の女将さんのように、もはや諦めに近いムードが集落全体を包んでしまっているのだ。
最終日に尾駮に泊まったときも私は民宿の主人に同じことを聞いてみた。
「原燃が入った頃は、誰も不安だったべ。けど、それで、他所から人がやってくるようになった。うちが民宿を開いたのが、昭和60年頃で、原燃が来て2年後くらいだ。それでうちは儲けてるから、何も言えんべ。」
核廃棄物に対する不安に対しては、
「低レベルは大したことないんだろ。それに何年後か知らんが、高レベルの方はどっかに持って行く約束だべ。みんながそれを認めてるから村長選挙で推進側が勝ったべ。」
主人の話があまりに楽観的だったので、
「その高レベル廃棄物ですが、未だ最終処理地は決まっておらず、処理技術も確立されていないので、おそらく期限が来てもここに置くことになると思います。国が絡んでいることから、ここが最終処理地になる可能性も十分考えられます。低レベルも名称からは大したことなさそうに感じられますが、決してそのようなことはありません。大変危険なものです。」
こう私が答えると、主人は突然声を上げて、
「それは嘘だ。いい加減なこと言うな! そんなこと聞いてないぞ! もし高レベルまでも最終処分するつもりなら、俺も反対だ! 誰だって反対するに決まってる。」
尾駮は泊と違って核燃サイクル施設からすぐのところにある。したがって、ここの住民の多くは、何らかの形で原燃の恩恵を受けている。原燃社員のベッドタウンである尾駮レイクタウンがつくられ、街の経済は全国から原燃へやってくる労働者で潤う。また、近くにショッピングモールや図書館ができるなど、住民たちの暮らしは随分便利になった。このような原燃効果に甘んじてしまって、今さら核燃サイクルを真っ向から批判する気持ちになれない、というのがここ尾駮の住民の多くの意見だろう。これでは、まさに推進側の思惑に乗せられてしまっているという気がしてならなかった。
このように街の様子からは、かつてあれほど盛り上がった核燃サイクル構想反対の熱狂が、時の流れとともに風化していく経過を感じ取ることができる。その風化は、挫折・諦め、あるいは妥協・譲歩など、様々な表現にも換言できるが・・・。
5.ガイガーミュラーカウンタ
この部分は、卒論のテーマに直接関わるとは言い難いが、放射線について少しでも身近に感じ取ってもらうことができればと思って、添付した。
私は今回の旅行で、ガイガーミュラーカウンタを持ち込んで、漏れ出た放射線を観測できないかを実際に確かめようとした。国や企業側の発表するデータというものは、推進の妨げになることを恐れて甘く見積もられたものが多く、信憑性が高いとは言い難いからである。ガイガーカウンタは、核施設で働く人々が用いるサーベイメータよりはるかに感度が高く、太陽光や家などの素材に含まれる自然放射線でさえも、しっかりと感知してくれる。
火山岩の一種である花崗岩にはラドンが含まれるため、日本列島では地盤の関係から東日本より西日本の方が自然放射線量は多いと言われる。また、放射線量は発信源からの距離の二乗に反比例して減量されるので、例えば、距離が2倍になると放射線量は元の4分の1になる。どのデータも10分から1時間程度測定したものを分で割り、単位を一分間における崩壊数(カウント)に統一した。一般には晴れのときで100〜130カウントを標準だと思ってくれればいいが、下北半島は全体的に低く、70〜90カウントが標準だろう。太陽光からの自然放射線にデータが左右されやすいので、左から順に、番号、場所、時間、天候、カウント数を記載する。
@ 一橋大西キャンパス 16:30 曇り 124.9
A 上空(高度8800m) 14:00 晴れ 1197.5
B 再処理センター玄関 10:30 晴れ 145.0
C 施設近辺道路 10:40 晴れ 80~90
D 施設内 15:00 晴れ 72.4
E むつ小川原港 16:30 晴れ 105.0
F 鷹架沼 17:30 晴れ 117.8
G ウラン鉱石(室内) 09:30 晴れ 2583.4
H 恐山周辺 12:20 晴れ 92.1
(注:@とCの注釈は省く)
A 国内線のパイロットや添乗員たちは地上の10倍近くの放射線を日々浴びていることになる。では、もっと高くを飛ぶ国際線では!?
B 測定中に私は警備員に不審者と間違えられ、捕まり危うくカウンタを没収されそうになった。しかし、このデータ、人体への危険はないとは言え、この辺りの自然放射線にしては高すぎる。もしもこれが、施設内からの人工の放射線の漏洩であるなら、その中心における線量は大変なものである。
D 施設内の測定はできないと思い、電源を入れたままリュックに入れて貴重品ということで持ち込んだ。予想だが、施設内は防護壁や防護ガラスのため相当線量は低い。屋内にいた時間と建物間の移動のため外へ出た時間の割合から、カウントされた線量は、ほとんどが施設の外で浴びたものだろう。
E この日、むつ小川原港では、低レベル放射性廃棄物の積み下ろしが行われていた。
F 地中を伝って放射性物質が漏洩した場合、地下水の集まるこの沼でその線量が、まず観測されるだろう。
G 展示品として原燃PRセンターに置いてあったものを測ってみた。鉱石からの距離は厚さ1cm程のプラスチックのケースを隔てておよそ10cm。この距離でも一瞬にして自然放射線量の約20倍以上を浴びてしまう。ふとウラン鉱山で働く人々のことを考えてしまう。事実、かつて岡山県人形峠のウラン鉱山で働いた人々の間で肺ガンやリンパ腫瘍などの発病率は異常に高いとか。
H イタコで有名な恐山。下北半島では最も著名な火山で、辺りは硫黄の刺激臭がたちこめている。しかし火山でさえもこの値である。
[1] 最近は50ミリから25へと変更されつつある。企業によっては20ミリ以上被爆すると、その時点でその年は働かせてもらえない。
[2] 詳しい放射線量は不明だが、一日0.8ミリシーベルトを限度とするサーベイでは、一瞬にして警報が鳴るだろう。
[3] 実は放射線漏れ事故は今や原発内では日常茶飯事のことである。それを下請け企業ほど内部で隠蔽しようと努めるので上位にはあまり伝わらない。まして外部に漏れることは滅多にないことである。脱原発が唱えられ原発が斜陽産業化する今、原発へと予算を回すことは困難になりつつある。従って、これまでのエネルギーを確保するには耐用年数ギリギリでも既存の原子炉を動かさなければならないだろう。このような原子炉はもはや継ぎはぎだらけなのである。
[4] 原子番号がウランの92番より後の元素を構成する核種、ないしこれを含む放射性廃棄物。いずれも人工的に創造された物質で、従来は存在しなかった。(『放射性廃棄物』より抜粋)
[5] 昭和59年入村。